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SPECIAL

“町田市は神奈川だった?”
東京都と三多摩地域をめぐる歴史を
ひも解きます!

更新日:2023.10.26

松崎稔さん 町田市立自由民権資料館学芸員 長井優希乃さん ラジオパーソナリティ・生命大好きニスト・教員

町田市域が神奈川県から、現在の東京都に移管されて、2023年で130年。「町田は神奈川」ネタは、歴史に裏付けられた事実だったのでしょうか!? 町田市出身でラジオパーソナリティの長井優希乃さんが、自由民権資料館学芸担当の松崎稔さんに、町田市の歴史についてお聞きしました!

東京が欲しかったのは町田ではなかった?

長井 「町田で生まれ育ちました」という話をすると、「神奈川県の町田ね!」と茶化されることがしょっちゅうあります。そのたびに「いやいや東京だから!」と返していたのですが、町田は神奈川だったという歴史的事実があるんですよね。私は大人になって初めて知ったのですが。

松崎 明治の前半頃までは神奈川でした。実は町田だけではなく、三多摩地域(西多摩、北多摩、南多摩)全域がそうだったわけですが、いじられるのは町田だけですよね(笑)

松崎 けっこう複雑でやっかいですが、明治4年(1871 年)、明治政府はそれまでの藩を廃して府と県を設置する廃藩置県を実施しました。それが少し精査され、県の数が少なくなってきたとき、町田は数ヵ月間だけ東京府に入ります。それを、神奈川県側が「いやいや、そうじゃないだろう」と反対したところ認められ、神奈川県になったわけです。

長井 そうなんですね。

松崎 その後、東京府は玉川上水の水質管理を目的に、玉川上水のある西多摩と北多摩を東京府へ移管することを政府に要請します。町田を含む南多摩は直接の関係はなくて、東京が欲しかったのは西多摩と北多摩だったというわけです。

長井 なるほど!

松崎 その話は許可されなかったのですが、やがて、自由民権運動を行っていた自由党という政党と、それを抑え込みたい神奈川県との対立が起こります。

長井 多摩地域は自由民権運動が盛んな地域でしたね。

松崎 神奈川の知事と対立している自由党のトップは、野津田の石阪昌孝という人物です。知事は自由党を抑え込もうとするものの、手に負えない。自由党は自分たちを抑え込もうとする知事を追い出したい。

長井 民衆の反骨精神というか、社会運動の力が強かった?

松崎 石阪は衆議院議員選挙に出馬します。知事は彼が選挙で負けるよう陰で動きますが、それでも石阪が勝っちゃった。知事は自分が追い出される前に、相手を追い出してしまえと考えたのでしょう。町田を含む三多摩を東京へ移管する話を国と東京につけたようです。

長井 西多摩と北多摩が欲しいなら、町田のある南多摩も一緒に東京へどうぞ、ということだったと!

松崎 南多摩メインで東京に出したい神奈川と、北多摩と西多摩が欲しい東京との妥協点で、南、北、西の3つとも東京へというところだったのでしょうね。

野津田村絵図(天和2年・1682年、野津田町・河井家文書)という大きな古い地図を広げて見せてくれた松崎さん。町田市の歴史を振り返る。
対談後、松崎さんのアテンドで館内を見学。「自由民権運動がもたらしたもの」というコーナー内の「女性の権利も語られはじめる」という展示の前で話す長井さんと松崎さん。
貴重な資料も展示されている。あきる野市の土蔵から発見された、民間の有志が作った憲法。発見された地名からとって「五日市憲法草案」と呼ばれています。
元老院(明治時代初期の立法機関)の議官により翻訳されたスペイン・スイス・ポルトガルなどの8カ国の憲法をまとめた本。五日市憲法もこちらを参考に作られた。

人、暮らし、生活空間。
町田のおもしろさは多様性にあり

長井 私が育った野津田は、野原がたくさんある、幼少期の記憶のままのイメージです。一方、町田駅周辺は、何でもそろう都会。ファッションビルもあれば、おいしいラーメン屋さんもおしゃれなイタリアンもあります。コストコのある多摩境も町田。町田ってすごく広いなと思うのですが、松崎さんが考える地域の特色とは、どのようなことでしょうか。

松崎 長井さんが言われたように、一つになっていないところが特色だと思います。多くの場合、街は中心になる駅の周辺に広がっていくものですが、町田の場合はその駅が一つではないというのでしょうか。原町田周辺は町田駅ですが、それとは別の生活空間が鶴川駅、多摩境駅などにもあり、地形的にも人の動き的にも、それぞれ違うサイクルで動いている人たちが一緒になっている。そういうおもしろさがあるのではないかなと思っています。

長井 どういう経緯でそうなったのだと思われますか。

松崎 町田の地形も関係していると思います。市の北には多摩丘陵があり、その地形を利用しながら家も建っています。町田駅周辺の地形は、それとはまた違います。北と南では、江戸時代からの生活スタイルも違っているのではないかと思うんですよね。道路も鉄道もその地形にあわせてできるので、そもそもの町田の地形と人々の営みが積み重なり、今の町田ができているのだと思います。

長井 多様な人々と多様な暮らしがある町田が、どうして一つの街になったのか、疑問に思っていました。その点はいかがですか。

松崎 町田市になったのは昭和33年(1958年)ですが、地元の人たちには、町田が一つの地域だという自覚があまりないんですよね。その後、昭和の大合併があり、経済都市になりそうな場所の周りに農村をひとくくりにして、自治体を合併させようという動きがあった。それに乗っかって、町田市ができているんです。そこに忠生や鶴川、南地区がくっついて、一つの経済圏ができるだろうという発想だったのでしょう。

長井 昔は三多摩格差なんていう言葉もありましたけど、私はそんな格差を感じたことはなくて、むしろ町田って豊かだよねと思っていました。都会もあるし、野原もある。そのいいトコどりが町田のよさじゃないかなと思っていて。

松崎 おっしゃるとおりだと思います。南に行くと住宅が密集するベッドタウンとしての顔があります。生活している人もたくさんいるんですけど、北へ行くと緑豊かな自然がある。夏にはホタルを観察できる場所もあります。町田は昔ながらの里山の風景が残る、東京でも数少ない場所なんですよね。

長井 心が満たされる感じがしますよね。町田のおもしろさは多様性だと思っていて、でも、なぜその町田が一つに?という疑問があったのですが、今回とてもクリアに説明していただいたことで、あらためて町田の魅力を実感できた気がします。

松崎 三多摩のなかでも町田だけが神奈川でいじられたりするわけですが、逆にそのおかげで、町田の良さを再発見できるというのかな。他の自治体にはない機会を与えられているのかもしれないですね。

長井 確かにそうかもしれませんね! 本日は、お忙しいところありがとうございました。


松崎稔
PROFILE
1996年より町田市立自由民権資料館で学芸員として勤務。自由民権期の結社の活動のなかの「学び」や「思想」を研究しながら、現代の「学び」を考え、実践に取り組む。共著に『多摩の近世・近代史』、『中央評論』242に「<多摩アイデンティティ>を考える」を寄稿。
長井優希乃
PROFILE
町田市出身。J-WAVEの番組「JUST A LITTLE LOVIN'」ナビゲーター。ヘナ作家、生命大好きニストであり、中学校社会科の教員。@chumyukino 著書『令和GALSの社会学』、『インド文化読本』への寄稿、WEB連載『バイブス人類学』。
町田市立自由民権資料館
自由民権運動及び町田の歴史に関する資料の収集、保管、閲覧、また常設展示「自由民権運動と町田」「町田の歴史〜時代でたどる人びとのくらし〜」のほか特別展・企画展開催などを行っている資料館です。

所在地:町田市野津田町897
電話:042-734-4508
FAX:042-734-4546
開館時間:午前9時から午後4時30分
休館日:月曜日(祝日、振替休日にあたるときは、その翌日)、12月28日から1月4日、特別休館日
入館料:無料 
https://www.city.machida.tokyo.jp/bunka/bunka_geijutsu/cul/cul03/index.html

町田の歴史をさらに深ぼり!

自由民権資料館の缶バッジ。町田から出土した土偶などがデザインされています。

実は、町田市には約30,000年前の旧石器時代から近代までの遺跡が約900ヶ所あります。そのうち8割は縄文時代の遺跡。貴重な遺物なども出土しており、都内でも有数の質と量を誇る考古資料があります。町田は縄文人にとって住みやすい場所だったことがわかります。

\And More/

町田市考古資料室
市内の代表的な考古資料が展示。町田市小山町の田端東遺跡で発見された「中空土偶頭部」もここで見られます。町田市の縄文文化を広く普及することを目的に、この土偶をモチーフにした「まっくう」というキャラクターが生まれました。
町田市考古資料室
町田デジタルミュージアム
市が所蔵している歴史資料の解説や3D画像などを見ることができます。
町田デジタルミュージアム
町田市公式動画チャンネル 町田文化遺産
撮影/黒澤俊宏 文/小山まゆみ 構成/田中希
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