引越し業者がベッドを持ち上げたと思ったら、その下に敷かれていたカーペットがべろりとめくれ上がって、フローリングが一瞬顔を出した。久しぶりに見たフローリングは端の方が少しだけ剥げている。中町まほろはそれを見た途端、この部屋と街の記憶に押し流されて、なんだか泣きそうになった。東京都町田市金森。まほろがJR町田駅から徒歩21分にあるこのワンルームに引っ越してきたとき、あのフローリングは既に、部屋の隅で小さく剥げていた。
大学が近くて駅も大きそうだったから、住んだだけ。きっかけはその程度だった。そもそもまほろの実家は都内にあるのだから、大学だって電車で通おうと思えば通えた。ただ入学早々、上京組が終電過ぎまで町田の飲み屋で遊んでいるのを見て、まほろは町田駅周辺での一人暮らしがやけに羨ましくなった。気付けば授業などろくすっぽ出席せず、小田急線のフミキリ前の不動産屋で、物件の間取り図を眺めるのが彼の日課になった。
実際に引っ越したのは20歳を過ぎたばかりの頃で、なんとか貯めたバイト代と、親への土下座により確保した引越し代を握り締めて、まほろはこの街に根を下ろした。徒歩21分という距離を「徒歩圏」と呼べるのかは分からなかったが、バスもよく通っていたし、すぐに駅近くのドンキホーテで自転車を買うと、雨にも負けず、風にも負けず、ギアのない自転車で気ままに街の中を移動するようになった。
この街には映画館がないものの、ほかのものは大体揃っているようにまほろは思う。仲間たちとの集合場所は仲見世商店街の中にある沖縄料理屋か、小田急百貨店の前にあるカリヨン広場で、向かう先も同様に、居酒屋かコンビニか漫喫か、あるいはカラオケかボーリング場くらいだったから、そもそも行動範囲が狭過ぎたのかもしれない。酒の席が飽きたときには、一人でカリヨン広場のそばにある本屋に足を運ぶか、芹ヶ谷公園内にある版画美術館で暇を潰すか、小田急線沿い近くにあるレコードハウスに立ち寄るのがまほろの習慣だった。続かないのはバイトと人間関係くらいであり、孤独だけを敵としながら、いくらか文化的でいて、極めて退廃的な暮らしを送っていた。大学入学後二年もしないうちに、まほろはこの街の居心地の良さに、ズブズブとハマっていくことになった。
まほろがこの街をさらに好きになったのは、シバヒロという天然芝でできた公園の、その近くにあるラーメン屋で、「ある事件」を起こしてからだった。町田は美味いラーメン屋が多く、まほろはそのことも気に入っていた。
その日も、行列ができたラーメン屋の店内でまほろが並んでいたところ、まほろの前に並ぶ女性が先に案内された。何気なくその女性を目で追っていると、彼女は指定されたカウンター席に座るなり、店の割り箸を使わずに、カバンから自分の箸を取り出した。
ただ、それだけの所作とも言える。だが、まほろにはその箸が何でできているのかは分からないが、とにかくその箸が、何かとても美しいもののように思えたのだった。そこから、まほろの記憶は一瞬、飛んだ。自分がいつ店員に案内されて、その女性の隣の席に座ったのか、全く覚えていなかった。
「あの!」
震えている自分の声を聞いて、まほろは初めて自分が何をしでかしたのか気付いた。ラーメン店で隣に座る女性は、まさに麺をすすっている最中であり、その女性に向けて、自ら話しかけていた。私語厳禁、といった空気が漂う静かな店内に、まほろの声は本当に大きく響いた。
女性はすすっていた麺を喉につまらせ、激しくせきこんだ。まほろはどうして良いのか分からなくなり、とりあえず、自分の思ったことを全て伝えて、さっさと店を出ようと決めた。
「あの、その箸、すっごく綺麗で、いや本当にそれだけなんですけど、いや、それだけっていうか、あの、綺麗で、そういうのを持っている女性っていいなあっていうか、その、あの、僕、中町まほろって言います。はい! あの、素敵なお箸でした。ありがとうございました!」
そこまでを一息で言いきり、席を立とうとした。まほろとしてはもうこの場にいられる資格がなく、早々に消え去りたいと思うばかりであった。だが、椅子から腰を上げようとしたところで、別の声が耳に入った。
「ワンタン麺一つ、お待ち」
自分の席に運ばれてきた、茶色く透き通ったワンタン麺が、まほろの退席を拒んだ。まほろは耳の端まで顔を赤くしながら、浮きかけた腰をまた席に下ろすしかなかった。そして、目の前に置かれた出来立てのワンタン麺を、かつてない速度で平らげた。まほろは自分が猫舌であることを忘れられたのは、後にも先にもこの日だけだった。
汗だくになりながら夢中でラーメンを頬張っていたせいで気付かなかったが、隣の女性は、まほろが食べ終わるより早く席を立ち、店から出ていったようだった。まほろは自分のラーメンを完食後、そのことに気付いて、安堵した。こんなにも恥ずかしい告白、いや、これは告白までいかない、ナンパだ。ナンパ? 人生で一度もしたことのなかったナンパを、まさか、ラーメン屋で? まほろはその事実を客観的に確認することで、地の底まで頭から落ちていく気分を味わった。
しかし、まほろが町田をさらに好きになったのは、この後の瞬間である。近くに駐めてあった自転車を取りに行こうと歩き出したところで、まほろは後ろから声をかけられた。それも、先ほどまほろが店の中で上げた声よりも、さらに大きな声で、だ。
「あの! お箸! 褒めてくれて、ありがとうございました!」
町田街道の反対側、のちにまほろの妻となる成瀬つくしが、笑顔でまほろを見ていたのだった。
引越し業者が部屋を出ていって、駅徒歩21分のまほろのワンルームには、いよいよモノが何もなくなった。思いのほか広くなった部屋をぼんやりと見つめて、まほろはこの部屋の歴史が、全てさらわれてしまったような気がした。しかし、そこまで感傷的になるものでもないとわかっている。
まほろは7年住んだこの部屋と別れを告げて、今度はもう少しだけ駅から近くのマンションに、住居を移す。それも、今度は一人ではなく、つくしという伴侶とともに。この物語は、もう少しだけ続く。
「きっと私はこの街にいる」はコチラ!
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町田シバヒロ
小田急線町田駅から徒歩約6分の天然芝の多目的広場。約5,700㎡と広い芝生でくつろいだりスポーツをしたりと、憩いの場として愛されている。週末を中心にイベントが開かれることも。 詳細はこちら -
町田市立国際版画美術館
芹ヶ谷公園内にある、世界でも数少ない版画を中心とする美術館。年間を通じてバラエティに富んだ展示を楽しめるだけでなく、創作や発表の場としても親しまれている。 詳細はこちら -
芹ヶ谷公園
小田急線町田駅から徒歩約15分の緑と水が豊かな公園。公園内には彫刻作品のほか、広場や滑り台などがあり子どもから大人まで楽しめる。春にはお花見をする人で賑わっている。 詳細はこちら
カツセマサヒコ
1986年東京都生まれ。大学卒業後、一般企業に就職。趣味で書いていたブログを機に編集者・ライターに転職し、SNSで人気を博す。2017年に独立し、2020年、小説家デビュー作の『明け方の若者たち』(幻冬舎)を刊行。町田市在住。
@katsuse_m